石井隆が土屋名美を描くことのどうしようもなさおすすめ度
★★★★★
石井隆の映画に土屋名美が出ると空気が変わる。そして独特の風が「ヒューっ」と吹く。
ずっと封印され続けていた“名美”とスクリーンで再会して、改めてそう感じた。
石井隆の劇画に登場した土屋名美は、ひとりの女優として石井隆のイマジネーションを具現化するために渾身の演技を繰り返した。
そしてそれらが原作として映画化されると、生身の女優たちが土屋名美という女優を凌駕しようと渾身の演技を披露する…そんな入れ子現象が起きる。
そこに、独特の風を産み出す作用があるのではないかと思うのだがどうだろうか。
「人が人を愛することのどうしようもなさ」という言葉は、石井隆が自作を語るたびに口にしていた作品世界の普遍的テーマだ。
『天使のはらわた』も、『死んでもいい』も、『ヌードの夜』も、『夜がまた来る』も、『GONIN』も、『花と蛇』も、
裏タイトルを付けるとすれば、全部「人が人を愛することのどうしようもなさ」だ。
今作は自らの普遍的テーマを映画のタイトルにしてしまったのである。
映画を観る前にこのタイトルを聴いた時、作家としての名美名美(?)ならない決意と覚悟を感じた。そしてその予感は、当たっていた。
封印を解かれて解放されたのは、土屋名美ではなく、実は石井隆だったのかも知れない。
そして、その試みが実現したのは土屋名美という女優の魂と覚悟を一身に受け止めることのできる生身の女優、
喜多嶋舞との再会、存在なくてはあり得なかったであろう。
どうしてここまで演れるのか…目を疑うような演技も迷いなく突き進むその迫力は歴代名美女優の中でも突出していた。
彼女もまた「土屋名美を演じることのどうしようもなさ」に憑き動かされ、その運命を受け入れていたに違いない。
でなければ、あの素晴らしいミューズぶりの理由を説明することは不可能だ。
今作『人が人を愛することのどうしようもなさ』は、石井隆の世界とは何ぞや、というエッセンスを凝縮した一本だ。
名美の告白という進行形式を通して吐露された言葉の数々によって、石井隆の繊細なメッセージがフィルムの中に刻まれている。
どうして石井隆が土屋名美を描くのか、どうして石井隆が映画を撮り続けるのか…そうすることのどうしようもなさが名美によって代弁されている。
後年、石井隆とはなんぞやと語られるとき、この作品にスポットが当てられることは間違いない!
大人の映画
おすすめ度 ★★★★★
私たちは映画を観たとき、物象を自らの意思で目撃したと思いがちです。
けれど、ほとんどの場合“見せられた”に過ぎません。巧みな編集やCGを駆使出来る
時代に女優喜多嶋舞と監督石井隆がわたしたちに“見せた”ものは何だったのか、
そこを充分に考えないと『人が人を愛することのどうしようもなさ』を“見た”
ことにはならないと感じています。
かれこれ二十年程前、カメオ工房に立ち寄った際に刻まれた強烈な記憶が蘇えります。
それは年老いた職人の著しく変形した指です。何十年と鉄製のノミ“ブリーノ”を振るい
続けた結果、男の人差し指は通常の二倍に膨れ、硬い皮に包まれていました。許しを請い
触らせてもらったその指は皮膚の弾力、温かさを失い、別種の生物が貼り付いたようでした。
凄いね、思わず声を上げると老職人は目を細めて笑顔をこちらに向けました。
ひとの肉体は変わっていくものです。労働にいそしむ男の腕には血管が浮き出て変形します。
子供を産んだ女性は相応のふくよかな体型になります。労働と長い人生を経て、人は変化
するのが自然であり美しいとわたしは思います。
喜多嶋舞さんの身体は美しかったですよ。その美しさを、その人生の重さと匂いを女優と
監督は表現したかったに違いありません。
描かれたのはカミーユ・クローデルの彫刻に例えれば、「分別盛りL'Age mur」を引き裂き
無残に孤立させた「嘆願する女 L’Implorante」の像です。性愛の女神として複数の男たち
に次々言い寄られる名美でなく、愛が消えることのどうしようもなさに身悶えして、淋しさに
狂った名美、ひとりきりのおんなの姿が描かれています。胸に迫るものがありましたが、
これに気付き共振するには相応の年齢を経なければ難しいでしょう。
大人の映画ですよ、これ。